「諦める」とは   教会長
  

 私たちは、日常生活の中で、知らないうちに、何かと仏教の教えに触れる機会が多いようです。
 いくつか、なじみ深い言葉と、仏教でいう本来の意味を紹介しますと…
「玄関」(深い悟りの道に入る入り口)
「自然」〈ジネン〉(人間の作為のない「そのまま」の在り方)
「「微妙」〈ミミョウ〉(言葉では言い尽くせない不思議で奥深いという意味)
などなど、挙げればきりがありません。

 そんな中、「諦める」という言葉があります。目的に達せず、途中でやめるというのが、現代の意味ですが、元々は「真理を明らかに見る=あきらみる」という意味です。
 逆に言うと、真理を明らかにするまで、その行いをやめてはいけないということなのでしょう。

 今年の阪神タイガースは、まさしく本来の「諦める」という意味にふさわしい終盤の戦いぶりです。自分たちの実力をはっきりと見極める所まで、戦い続けていることに、感動すら覚えます。(この原稿を書いている現在、CSファイナルステージの第3戦終了、読売に王手をかけられたところ、一矢報いました)。

 信仰の世界を明らかにする「諦める」ということは、至難の業であることは言うまでもありません。金光教の教祖も、たゆみなく神様と向き合う中で、「諦める」ことを目指したに違いないでしょう。

 先日、ある人に「先生の好きな『金光教の教え』ってどんなものですか?」 
と尋ねられました。私は「『大阪は広いのう。しかし、ケシ粒よりは少し小さかろう』『人は十年を長いように思うけど、神からすれば、あちらを向いてこちらを向く暇もない』というのが好きです」と答えました。神様から見た視点を、教祖は「明解」に「諦め」ておられます。

 皆様には教祖様の好きな「み教え」はあるでしょうか。なぜそのみ教えが好きなのでしょうか。明らかにすることで、「諦める」の本来の意味が見えてくるかも知れません。

 
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